吾輩は生きている

スピリチュアリティー

 「次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支
さしつか
えはない。ただ楽である。
いな
楽そのものすらも感じ得ない。日月
じつげつ
を切り落し、天地を粉韲
ふんせい
して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏
なむあみだぶつ
南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」(「吾輩は猫である」から)

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の主人公である猫(吾輩)は、最後事故死したことになっています。来客の飲み残したビールをいただいて酔っ払い、水の入った甕に落ちて溺死する、というストーリーです。

 しかし、よく考えてみると矛盾しています。死んでしまうと、自分の死んだ場面は書き残せなくなります。だからたぶん水ガメに落ちて苦しんでいるところを苦沙弥先生に助けられ、その時の様子を書いて死んだことにしたものと考えます。または、あの世からの霊界通信みたいにこの世の誰かに伝えて、残りの部分を完成したとも(^^)。そのうち「吾輩は猫である」の続編が出るのではないでしょうか。

 この最後の場面、猫は念仏を唱えています。主人公(主猫公か)が宗教的になるのはここだけです。猫に宗教はないと思われるので、この猫はやはり人間、それも作者の漱石の分身だったのでしょう。そして「日月
じつげつ
を切り落し、天地を粉韲
ふんせい
して不可思議の太平に入る。」の部分は、漱石が仏教に造詣が深かったことがわかります。まるで高僧の言葉みたいです。

 阿弥陀仏の「阿弥陀」は、サンスクリット語の 「Amita」を音写した当て字です。「Amita」はAmitābha(アミターバ) または Amitāyus(アミターユス)を略したもので、Amitābha が無量光(量りしれない光)、Amitāyus が無量寿(量りしれない寿命)という意味です。つまり阿弥陀仏は空間と時間を超越している存在です。その阿弥陀仏にすべてをお任せする、という境地が「日月
じつげつ
を切り落し、天地を粉韲
ふんせい
して不可思議の太平に入る。」なのでしょうか。